霊魂学 ときどき ねこと龍と名古屋のことと

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自分って何?

昨日の自分、今日の自分、そして、明日の自分

 

人生も終盤に差し掛かり、もう年齢的には完全に老人の域に達してしまいましたが、意識体として少しも変っていないような気がします。昔と変わらない、今まで通りの自分がいるように思えるのです。

 

勿論、物忘れが激しくなった、物がよく見えなくなった、音や声がよく聞こえなくなった、坂道をのぼるのが辛くなってしまった、等々、自分の肉体の衰えを目の当たりにすると愕然とするのですが、若い頃は、年をとったら、その外見相応の意識状態に変化するのではないかと想像していたのと裏腹に、なぜか、意識は若い頃と全然変わらないように感じるのです。

 

人の意識というものは、ひょっとすると、絶えず変化しているのにもかかわらず、自己同一性を保っているように感じるようできているのかもしれません。

 

或いは、もし、「昨日の自分は今日の自分ではない」というような大きな意識の断絶を毎日感じるというようなことがあれば、個性そのものが保てないのかもしれません。

 

となると、いくら今の自分が嫌いだといっても個性を度返ししたような大変身を夢見るのではなく、自分は自分でありながらも、徐々に、少しずつ変化させていく、進歩向上に努めていく、といったことが大切であるように思われます。

 

過去世、そして今生と、長い時間をかけて形成してきた個性は、嫌な部分も含めて自分なのですから。

 

さて、これを霊的トレーニングに当てはめてみても、同じようなことが言えるのではないでしょうか。

 

霊的トレーニングに励んでも、ちっとも自分は成長したように感じないという方がいますが、実は、変わらない部分ばかりに目が行っていて、そう感じているのは自分だけで、まわりは、「ほんとにあの人は変わったなあ」と思っている場合が多々あります。

 

たとえ、表面的な変化はあまり認められなくても、霊的な意識、霊的な身体においては、着実に変化をしているわけですから、成果が目に見えないと言って嘆くことなく、必ずや霊的な進歩を成し遂げられるものと確信して、コツコツと真面目に霊的トレーニングに励んで行きたいものだと思います。

 

逆に、自分は、別人のようになってしまった、自分がどんどん霊的に成長して行くのがわかるという人がいるとするなら、その人は高慢という落とし穴に落ちる危険性、或いは、良からぬ霊魂の干渉の危険性を警戒すべきなのかもしれません。

 

 

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