霊魂学 ときどき ねこと龍と名古屋のことと

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「シジフォスの岩」 ~匿名さんからの投稿です~

「シジフォスの岩」とは、ギリシャ神話の一節で、シジフォスは罰として、タルタロス(暗黒の世界)で巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられるが、あと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される、というくだりを指すのですが、それは、文字どおり、果てしない徒労を意味します。

昔、私がまだ学生の頃、スランスのアルベール・カミュという作家が、これをモチーフにして書いた『シジフォスの神話』で、人は、皆いずれは死んで全ては水泡に帰す事を承知しているにも拘わらず、それでも生き続けるという、人の人生の不条理を表しましたが、これを霊的な進歩向上のプロセスとして捉え直してみたらどうでしょうか?

たとえば、ある人が霊的進歩への道を歩んで行きますが、もう少しで頂上、つまり、自分がめざす到達点だというとき、もう少しだということで油断をすることにより、或いは、慢心して己を神のごとしと錯覚することにより、一瞬にして、真っ逆さまに一番下まで転落してしまい、また最初からやり直さなければならないということを表しているとも解釈できます。

 

また、人が死んでは再生する、生まれ変わりのプロセスとして捉えることができるかもしれません。特に、霊的カルマの例えとして考えると、意味深いものがあるように思われます。

 

つまり、人はこの世に生まれ、この世で成し遂げなければならない課題があるというとき、一生懸命、その目標に向かって突き進んでいくのですが、何かのきっかけで、霊的カルマ、すなわち、過去世で形成された否定的な衝動が湧き上がり、一瞬にして、その人の人生を狂わせ、破壊してしまうことになり、再び振り出しに戻ってしまうということを表しているというものです。

 

とにかく、この霊的カルマの呪縛は、ただ、一生懸命に生きるだけではとても断ち切ることのできないほど恐ろしいものであり、シジフォスと同じような果てしない徒労の苦しみを味わわなければなりませんが、それを克服することを、唯一、可能にするのが、霊的トレーニング、とりわけ、神伝禊法なのです。

 

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