霊魂学 ときどき ねこと龍と名古屋のことと

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枯葉 ~匿名さんからの投稿です~

二階の窓から外を見ると、ついこの間まで、色づいて風情のあったケヤキの葉っぱは全部散り、竹ぼうきを逆さまにしたような格好で寒そうにたたずんでいます。

 

このケヤキの木、もう20年以上も前に、竹薮で芽を出していたのを持って帰って裏庭に移植したものですが、もう二階の屋根まで届くほど大きな木になってしまいました。

 

しかし、ここまで大きくなると、色々と問題が起こってきます。葉っぱが裏庭や畑に落ちると、土に返り、腐葉土として野菜や植物の栄養源になりますが、風向きによっては、道路や隣の敷地内にまで飛んで行き、近所から嫌な顔をされ、陰口を叩かれることにもなります。

 

かつては、落ち葉は腐葉土として田畑の肥料などに活用されたものですが、近年は、田舎でさえも必要以上に地表がアスファルトやコンクリートで舗装されてしまったために、循環のサイクルが遮断されて、新緑と紅葉の時のみ注目されるものの、どこかに捨てに行かなければならない厄介なゴミになってしまったのです。

 

我々人間は、見かけの美しさや、目先の便利さにのみ心を奪われ、都合の良いときに、都合の良い部分だけを切り取ろうとしますが、物事には物質的なことであれ、霊的なことであれ、そこには法則というものがあり、プラスの部分ばかりではなく、マイナスの部分が必ずあるように思います。

 

勝手に都合の良い部分だけを切り取り、他は切り捨て、決して全体を見ようとせず、目をそむけ続けると、いつか、そのしっぺ返しを受けることになるのではないでしょうか?

 

人間の一生というものを考えても、若い頃には力がみなぎり、溌剌としていた身体も次第に衰えてゆき、老いて枯れ木のように朽ちてゆきます。そして、必ず死というものがやってくるのです。

 

しかし、現代人は、ただ、生き永らえるということにだけに過剰な価値を与え、誰にでもやってくる死という現実から目を背けようとしています。

 

死ねばすべてが終わりではなく、死後、新しい生活が待っているとするなら、その準備を怠った報いは必ずやってくるに違いありません。

 

 


解かれた封印『二本足の霊魂』

 

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