霊魂学 ときどき ねこと龍と名古屋のことと

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瞑想の目的 ~匿名さんからの投稿です~

私が霊的な世界に関心を持ち始めたころ、最初にやり始めたのが、市販本を参考にしての見よう見まねの瞑想だったように思います。

 

そういった本には、瞑想とは無の境地になることだとか、空の状態になることだと書いてあったり、一方で、忘我の状態になったり、恍惚状態になり、神秘的な体験をすることだと書いてあったりで、何をどうしたら良いのかわからなくて、とにかく、目を閉じて、しばらくじっとしていることにしました。

 

でも、実際にやってみると、無どころか、次から次へと雑念が湧いてくるばかりで、挙句は、忘我というより、居眠りをしてしまう始末でしたが、心の底には、きっと、そのうち、何か、神秘的な体験ができるに違いないという期待感があったので、何度も途中でやめようと思いながらも継続したのでした。

 

しかし、その後も、何の変化も起こらず、だんだん、何のためにやっているのかわからなくなって、結局、頓挫してしまいました。

 

ですが、後から思うと、何も起こらなくて良かったのだと思います。後に、水波霊魂学を学ぶことによって、自分が大変間違ったこと、危ないことをしようとしていたことが分かったのです。

 

詳しくは、「瞑想の霊的危険」をお読みいただきたいと思いますが、瞑想とは、空になったり、神秘的な体験をすることが目的ではなく、自分と守護霊、指導霊などの高級霊魂方との交流を図るための重要な手段だったのです。

 

言い換えると、肉体と幽体が重なっていて見えにくい自分の身体を、オーラを安定させることによって高級霊魂から見えやすくし、その高級な気を受けるためのものであるということです。

 

人の意識は、変化しながら存続し続けるものです。ですから、瞑想の目的とは、無になることでも、空になることでもなく、意識を静止させることが最も大切なことであったのです。

 

心を平静にし、緊張せず、それでいてリラックスしすぎず、意識を一定の状態に保つこと、そして、こうした状態を一定期間、高級な霊的空間で継続することが、霊的に価値の高い瞑想方法であるということです。

 

ともかく、霊的な環境が著しく悪化した状況の中で、師にもつかず、我流で神秘体験を求めるために行う瞑想が、不道徳な霊魂たちの格好の餌食であることを知るにつけ、もし、水波霊魂学に出会うことができなかったとしたら、一体、自分はどうなっていたであろうと思うと、今でも、背筋が寒くなる思いがします。

 

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『瞑想の霊的危険』