霊魂学 ときどき ねこと龍と名古屋のことと

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善悪の木の実  ~匿名さんからの投稿です~

私達は、よく、あの人は悪い人だとか、善い人だとか、悪いことをしてはいけない、といった言葉を使います。

 

それらの言葉は、あまり意識せずに使っていますが、その、善だ、悪だということをどういう基準で用いているのでしょうか?

 

基本的には、世の中に浸透している法や倫理、道徳、常識や慣習などに沿った、とっさの判断だと思いますが、よく考えてみますと、それらの判断は公正のように見えても、その背後には、偏りが潜んでいるように思います。

 

端的にいうと、自分、自分の家族、自分が属する社会や国家、さらには、人類全体に対し利益や恩恵、秩序をもたらすものが善であり、その逆が悪だとされるのではないでしょうか?

 

そうなりますと、善悪の基準というものは、時代や状況によって変化するものであり、決して普遍的、絶対的なものではなく、恣意的で利己的なものが背後にあるということになります。

 

その恣意的、利己的な善悪の観念を普遍的な正義だとして、他を批判することによって対立や差別をもたらし、さらには戦争をさえ引き起こしてきたのではないでしょうか?

 

ところで、聖書にも、<人類は、善悪の木の実を食べて楽園を追放された>と述べられていますが、死後、私達が行く世界、つまり、幽質の世界には、本来、善も悪のなかったようです。

 

皆、自由であり、何でも手に入り、他者と争う必要がなかったようなのです。

 

しかし、人類が物質界に入って生存競争をする中で、善悪をふりかざすことになった結果、死後、幽質界に戻るときに、善いこと、悪いことという考え方を持ち込んでしまったようです。

 

そして、それが幽質の世界に不幸が生まれるきっかけとなったということです。

 

 

かくして、聖書にあるとおり、人は、善悪の木の実を食べてはいけなかった、ということになるようです。

 

 

二本足の霊魂: 人間と霊魂の歴史 (MyISBN - デザインエッグ社)

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